ストーリー性を楽しむサイエンスの進め方は気をつけないと危ない。
(月田承一郎、京都大学医学部元教授、故人)
実験系の研究者の方にうかがいます。
— 山形方人(nihonGO) (@yamagatm3) August 1, 2019
あなたは論文を書く時、どの順番で書きますか?
流石に「議論」から書き始める人は少ないと思います。昔は、結果とともに図を作製していって、その後、イントロや議論を書いていくというやり方が多かったと思いますし、おそらくこれは昔ながらの方法を多くの人がやっているということだと思います。
ところで私の先生が最近、eLifeにこのような論文の書き方の指南のような文章を書きました。
これは本人もAmusementのために書いたということですので、あまり真剣に捉えるべきものではないと思います。ただ参考になることとしては、昔と今(特にITが発達して、図の作製が簡単になっている)では、論文の書き方の順番について考え直してみるのもよいのではないかということがあるでしょうか。
しかし、私なども自分が結構面白い結果や発表するべき結果というのがあっても、ストーリーに必要ないの一言で削除されてしまったデータが多くあります。こういうのは、よく見られる米国的なサイエンスライティングの作法なのだと思います(そして、欧州人や日本人の一部は非常に嫌う。私もそのうちの一人かもしれません)。
しかし、数年経過してみると、その結果がやはり重要だったということが多いと感じます(論文発表時はそれでよかったとしても)。つまり、ストーリーに関係ないからといって、削ってしまい発表しないと発表する機会を失うことがある。つまり私の方がいつも正しかったと感じることが多いのです。これが私がこのラボにいるととても居心地が悪い理由の1つです。
ノーベル賞なんていうのは、ストーリーには合わないところ(世の人はセレンディピティという)から出てくることが多いわけで、ストーリーを作っておいて、それに沿って研究をやっていくと、大きな発見になっていくというのは必ずしも多くないと思います。
私の先生は、一応、神経科学の最大の賞のひとつとされるGruber賞を受賞していたりしています。
しかし、それ以上には行くことができなかったのは、ストーリーに合わないとすぐ捨ててしまうからだったのではないか、と個人的には感じているのです。
また、冒頭の月田先生の警句にあるように、ストーリーに沿ってサイエンスをやると、いろいろ弊害があるということも頭に入れておくべきでしょう(もちろん、研究全体にはストーリー性は必須だとは思います)。
こういうこともあるのですが、図の作製が20年くらい前に比べれば非常に容易になってきたということを考えると、やはり論文の書き方も変わっていくべきなのではないか、という点については賛成します。
更に警句
実験室に入ったら先入観や教科書の知識を忘れて、自分の立てた実験計画やこれから予測される結果に固執することな く、自然から学ぼうという謙虚な考え方を持つことが大切であります。(早石修)
大切なことは実験中に得られ意外な結果に注目することである。最もいけないことは、頭の中の先入主に災いされて思いがけない結果を何らかの誤りであろうと考え、捨ててしまうことである。(井村裕夫)
Our real teacher has been and still is the embryo, who is, incidentally, the only teacher who is always right. Viktor Hamburger
Study Nature, not Books. Louis Agassiz